55年の時を経て、父に手をひかれて訪れた福井県にある、曹洞宗大本山永平寺に辿り着いた。
時が止まったかの様な静けさに、胸は高鳴り門前から中へ。
ご幼少の時の記憶など宛にはならぬと思いながらも、大人になり入山し見た永平寺は、歴史そのままだった。
そして…山の上の大きなお寺と言う、イメージとは全く違って映った。
歳を重ねると言うことは、こう言う事なのかと。
全てが三分の一。
建物も、内観も、修行僧も。
子供心に威厳のあるお寺。修行僧も黙々と廊下を忙しそうに歩くお姿。廻廊が東へ西へ南へ延びた階段。
当時は、修行僧にランニングシャツの上に羽織るものをと注意されていた大人。サングラスを外すように更に注意されていた大人もいた程、格式高いお寺だった。
寺の中は静まり返り、息をするのも苦しいほどに、子供ならずとも、緊張し張り詰めた空気の中を歩き進んだ。幼少期
55年の歳月が、お寺までも変えてしまうという事を、今回の旅で思い知った様な気がした。
話しながら2人の僧侶が通り過ぎ、入口付近では他のお寺から来たであろう御住職らしきお坊さんと雑談をする修行僧。
何か、自分の心がここに来て気が抜けた様な気持ちになった。
今まで、曹洞宗17代続く本家に夏になるとあずけられ、おばあちゃまのお念仏、お経、お寺のお掃除と行ってきた事、そして何よりも、その歴史にこだわり過ぎていた自分に、やっと気がついたのだ。
坐禅を受ければ、おぼつかない説明で作法を教える修行僧。
全く説得力も、心に染み入ることばも無く、淡々と座禅の時を過ごし、気持ちが晴々としない。
結局無の境地など程遠く、浄化されずに終わった。
暫くお寺から出て、どなたでも打てる鐘つき堂にたどり着いた。
お賽銭を入れ、一度大きく鐘をついてみた。
深く心に染みる音色だった。
寺の中で浄化されなかったのに、何故?と言う思いで、もう一度お賽銭を入れ鐘をついてみた。
ぼーんと低い音が周囲に鳴り響き、やはり自分の心に突き刺さり、ずっと手を併せて鐘の音がなくなるまで拝んでいた。
帰り道、隣に流れる沢を眺めながら思った事は、全ては己の心の持ち様なのだと、今回の大本山で再確認をしたことだった。
どんな宗派で有ろうとも、どんなに大本山で有ろうとも、己の進む道を生かされている事に感謝し、今一度、正せよ我道という事なんだと、感じた福井一日目の旅だった。